昭和46年02月04日 夜の御理解
信心なければ世界は闇なりとおしゃるが、信心とはいわばだから光だ、と言う事だと言っておられますね、信心なければ世界は闇だと。だから信心があれば、世界がとまではいかんでも、信心ばあれば私の心の中は、私の家の中は光で一杯にならなければならんと言う事。だから信心とは結局、光なりと言うてもいいわけです。という私は、ほどしの信心でなからなければ、もう信心の値打ちは無いと思うね。
信心が光とまでならなければ、信心の値打ちは無い、ただご利益を頂くという意味合いだけでのこと、拝んだ参っただけの信心だと、例えばかんにおる時に考えとった考え方が、全然変わってこなければ、信心とはとても光、だから光とはどう言う事かと、言う事かとちょっと信心というのは、やはりお徳を受けることだと、日々、喜びの生活、安心の生活がでける、そういうおかげを頂くことだと言う事になるですね。
昨晩お風呂に入らせて頂いて、家内も入ってまいりましたが、家内と二人風呂ん中で話したことでした。まあ私は毎日なことでございますから、もう石鹸なんかももう一つぐらいあっという間になくなってしまいますね。一人一人のいわば石鹸箱を持ってから、一人一人が使うようにしたら、もっと大切に使うんじゃないかと思うくらい。何十人の者が湯水のように使う、何しょうがもうひとつも関心が無い。
けどもそういう時にこそですね、私は信心させて頂く者の、よりお徳を頂かせて、光を頂かせてもらうという者の心がけというのはね、そう言う所に使われていくと思うんです、家内と話しもう何日も前から、このくらいの石鹸が使わんなり、新しい石鹸がさっさとまた使われていた、だからもう、石鹸皿ん中にこうこ張り付いたようになって、こう段々段々こう、そのぼたもちんごつなってしまい、もう何日もそれを見ておるんですけれどね、これをなら使おうとするものがいない。
皆お徳を頂くごつなかもんばっかりだね、というて、私は家内に話合ったことですね、何故ってあなた、今朝から頂く御理解、一すくいの水だってお徳の現れね、一粒の米だって、神様のもうお徳そのものなんです。そのお徳そのものを、お粗末にしてお徳が受けられるはずがないですね、なるほど石鹸の、いうならこまくなったら流れてしまっているでしょうがね、お徳をいわば流していくようなもん、しかし信心させて頂いておる、しかも信心は光である徳である。
その光を頂きたい、徳を頂きたいという者ばっかりの、集まりであるはずの所で、こういうようなお粗末ご無礼なことがでけておって、ほんとにお徳を受たいてんなんてんおこがましいな、というて家内と話したことでしたね、その石鹸のそのものがお徳なんですよ、それを粗末にしてお徳が受けられるはずはありません。やはり心がけです、もうほんとに私はそう言うとこを大事にしていかなければいけない。
今日は炬燵の間に参りましたら、皆であそこでトランプかなんか、五、六人でしていましたね、丁度早はいらんのという時に、中々矢張りやりかけているトランプ、なんでもない、テレビとってもおなし事ですけど、やっぱこれだけ過ぎてから、というのが普通なんだけれど、私が皆に申しました。ちょうどやめられんところじゃろうと、けどもねそれを止めることが信心を進めていくこつあいだとね、テレビなんかでもね。
さあ用があるから、さあご祈念だから、さあ親先生がお風呂入れと言うたからというてパッと、それをいうなら消してくるだけの元気な心、もうさっと止められる、そのトランプの途中であっても、それをパッと止めるその心がね、それだけ神様に向うことになるんだからね、もうそりゃおかげ頂いていく、信心を頂いていくこつあいだよと言うてから話したことです。信心なければ世界は闇なりといわれることは、ほんならば信心は光であると言う事が分かります。
金光様のご信心はね、だからその光を求めての信心の稽古である。ですから世界はとまでいかんまでも、自分の心の中に、自分の家庭の中にともせれる光ね、そこで有り難い教えを頂く、いろんな成り行きんごた修行もする、なるほど結構けれどもそう言う事がです、例えば石鹸のこと一つのところから漏れていったらどうする。そんな僅かなところで、そこから信心のいわば光が消えるならどう言う事になるね、信心はやはり光だというね、信心無ければ世界は闇だと仰る。
してみると信心は光と言う事が、金光様のご信心だと言う事になる。ですから一つ皆さん、ほんとにそういう意味でお徳をお粗末、ご無礼になって行くようなこと、神様のお徳そのものが、お粗末ご無礼になっていきよることが沢山ある様にありますね、徳者、徳を受けた時にはそう言う所を、もう水も漏らさんように大事にしていくことだとおもいますね。また頂いていく上においても、そういう心がけがなからなければ、お徳には触れられないと思いますね。
どうぞ。